2013年2月20日水曜日

お説教に意味はあるか?

説教というのは、そもそも牧師さんや和尚さんが説いてくれるありがたいお話のようですが、今回は、日常でよく目にするお説教について書きたいと思います。

仕事をしている人であれば上司に至らない点についてお叱りを受けたり、学生であれば先輩や教師などにダメだしされる機会があると思います。説教されてみてどうだったかを尋ねてみると、ほとんどの人が態度を変えるどころか、説教した人に対する不満を口にします。

では説教なんて全く意味がないのか?というとそうでもありません。たまにですが、お説教されて態度を変える人もいるからです。

分類すると、態度を変える人と、不快感だけ募らせる人がいるわけですが、その最も大きな違いは互いの関係性だと思います。態度を変える人は、説教する人との間にある程度の信頼関係が出来ています。「タバコはやめろ」と教師から言われるのと、友達から言われるのは響き方が違いますよね。信頼関係がないと、ただただ相手にとって不快なものとなってしまうようです。

じゃあ、不快感が募るだけの説教は意味がないのか?というと、そうではなくて、そこにもちゃんと意味があると思います。ただ、説教される側ではなくて、する側にとって、です。説教している人のことを注意して見てみてください。説教することによって、その人自身が癒されていることに気づくと思います。説教する側にとっては、自分の考えや意見を存分に語れるわけですから、当然気分がいいですよね。ですから、説教をよくされる人は、それだけ癒し系なのだと思います。

ここまでの文章でもそうですけど、説教を「聞いた」とは言わないで、ほとんど「された」って表現しますよね。体験としては受け身に感じられているのだと思います。ですから、説教されるたびに、今日も誰かを癒してやったと思っていると少し自分の主体性が取り戻せていいですよ。

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